昭和40年11月20日 朝の御理解
身に徳を受ければ心配はない。徳のない間は心配をする。身に徳を 受ければ心配はない。もう一つは心配のない生活。そういう信心を目指してお互い、おかげを頂かせて頂きたい。身に、まずは徳を受けなければ、そして願いとするところが、身に徳を受ければ心配はないとおっしゃるような境地を開かしてもらうことを楽しみに信心さしてもらう。そこんところを頂いて。素直に、一心にどのような場合でも前に前進していく以外はない。
信心するのにどうしてこのようなことが起こってくるであろうかと思うたら、もう信心はとどまっておると。これはまだ私の信心が足りんからだと一心にそこから信心を進めていけばおかげになる、そこからおかげが受けられると、こうおっしゃる。そこを一つ、素直に、一心に頂けよと。おかげを頂かねばなりません。確かに素直に信心しておるようであり、一心に信心しておるようであるけれども、どこにか、そうでないものがある証拠におかげを受けられないのです。
一休和尚(イッキュウオショウ)ですかねえ、一休和尚の(イッキュウオショウ)の小さい時の話があります。ある時、一休和尚(イッキュウオショウ)が大変とんちがあるということを聞いて、ある大名が至難なこと、でけないことをどう、おー、まあ、受け答えをするだろうかと思うて(?)一休和尚に(イッキュウオショウ)に、一休和尚(イッキュウオショウ)じゃなくてね、子供の時代ですから、に、申しました。それはその、お寺の衝立に虎の絵が描いてある。あの虎を、お前は縛れるかと。縛ってみよと。なかなか、できませんと言うことが、やっぱ嫌いな人だったでしょう。承知しましたと。
もちろんとんちがよかった(?)、どうぞ、あの虎が、くくるような、ひとつ縄の用意をしてください。こんやつ俺に縄の用意させよる。どげなこつするつもりだろうかと。まあそう言うもんだから(?)虎をくくる縄を、その、一休(イッキュウ)に与えた。ところが、その一休和尚(イッキュウオショウ)が物々しゅうですね、(?)縄ば両手に持ってですね、さあ殿様、ここでくくりますからその虎をこちらへ追い出してくださいと言うのです。
なるほどこれは、まあ、一話のとんち話でございます。ね。なるほど(?)とんち話でございますけれども、信心はそれではいけんですもんね。承知しました。私が御用頂きましょう、私がおかげ頂きますと。と、いかにも、いうなら縄を持って、いかにも御用さして頂くように小芝居だけはするのだけれど、ね、御用ができん。あなたがおかげをくださらんから御用ができるのですよ。あなたが追い出してくださらんから(?)よるのですよと。ようするに、似たようなものはないかということです。ね、。おかげさえ頂きゃ、御用さしてもらう。あなたがおかげを頂かせきんなさらんもんじゃから、私も御用頂くわけにはいきません。御用頂きます。さあどうぞおかげをください。ね。
昨日、もう薄暗なるで(?)何かここの廊下で、栄四郎がけたたましゅう何か言うとります。それその、ネズミがあすこへ止まっとるち言うわけですたいね。何と、よく見たところが、あの、コウモリが止まってるんですよ。この廊下ん所。見たことがないもんですからネズミと思うて。あの、コウモリが、この辺であんまり見かけもしませんし、家ん中に入ってきとるなんてのは初めてでしたけれど。
コウモリの話がございますですねえ。鳥と獣が戦争を始めた。コウモリさん、コウモリさん、どうでも鳥の味方になってくれと。ところが自分は鳥ではない。ね、コウモリさん、コウモリさん、鳥と獣の戦争が始まった。どうぞ獣の方へ、えー、加勢をしてくれと。
ね、自分は、まあご覧の通りに、ね、ネズミのようにしておるけれども、ほら羽があるでしょう。私は獣じゃありません。と、あっちをうろうろ、こっちをうろうろと(?)。
いよいよ戦争が始まって、この戦争が平和んなった時、コウモリはどちらの獣からも鳥からも相手にされなくなった。だからいつも暗いところばかりで、あの、まあいうなら難儀をしておるというような話があります(?)ね。
どうでしょう。ひとつ例えて言うなら、これはまあ取次者でありますところの、まあ私どものよう、私のような場合でもこれが言えるんじゃないでしょうかね。神様によかごつ、信者によかごつ。しまいにゃ神様からもご信用を失ってしまう。ね、信者からも信用されなくなってしまう。ね、そういうようなことになってはつまらん。これは取次の先生だけのことではありません。お互いの、めいめいの信心の上にもです、ね、私は、もう一切から相手にされない。あれが言うこつは、もうあてにはならん。というようなです、ことになるような、ただ一時逃れのこと、いわゆる実意のないことではです、私は、コウモリのような結果しか生まれてこないと、こう思う。
今日のお話といい、コウモリの話といい。そういうような、私は、信心をしておる人がです、たくさんあると思う。ね、もちろん、今日、私のみなさんにわかって頂きたいというのはです、それでもなるほど信心が続けられないことはございません。けれども、身に徳を受ければ心配はないとおっしゃる。ね、身に徳を受ければ心配はない。身に徳のない間は心配をする。もう心配をせんですむような日々。ね、神様を本当に確信できれる生活。ね、もうそれに、ま、類似したことは寸あるようですね。私どもの、信心させて頂く者の身辺に。うん。(?)そりゃなりません。
とんち物語じゃないけども、これはとんちという意味ではありません。ね、あなたが追い出してくださるならくくりますといったような構えしかしてないで御用頂くと言うたところで御用が頂けるはずがない。そういうことで神様のご信用を獲得することは、もちろんできない。ね、一心に迷わず。これはまだ自分の信心が足りんからだというて前に前進する以外にはありません。信心は。そういう信心からしか私は、神様のご信用を追うことはでけん。お徳を受ける信心とは、そういう信心からしか生まれてこないというふうに思います。ね。
信者からも神様からも相手にされない先生は、もう取次者としての値打ちがない。
ように、ならこれは信奉者であります、信心を頂いておられる方でもそうです。神様からも相手にされなければ、人からも相手にされないというようなことのないような信心をです、本当に、真面目に忠実に、しかも熱意を持って、ね、しかも素直に、ね、信心を進めていきたい。目指すところは心配のない世界。ね、身に徳を受ければ心配はないとおっしゃる。身に徳を受けさして頂くということに信心の焦点を置いたらです、なるほどそれはもう、そんなに難しいことじゃない。一心、素直、忠実で。そげなこつしよったら自分の立つ瀬がなかごと。そげなことてもできません。と言わずに。
そうからといって、んなら、それを一つでものかして、あっちよかごとこっちよかごとしとったんではです、ね、はー、そりゃもうお参りしようち思いよりましたばってん、目が覚めじゃった。ね、まるきり自分が目が覚めじゃったつは神様んせいなどと。神様が起こしなさらじゃったと。そういう信心ではおかげ頂かんと思いますね。どうぞ。